Vフォー・ヴェンデッタを観た

ワチャウスキー兄弟が脚本を書いた「Vフォー・ヴェンデッタ」を観てきた。プロデューサーはジョエル・シルバー。監督はジェームズ・マクティーグ。この人についての詳細は知らない。
私怨から頭がおかしくなってしまったお面の座頭市が、死に場所を求めて周囲に無理難題を突きつける物語である。煽動者は支配者の殺害を図り、煽動者に共感した群衆はゾロゾロと街を練り歩く。夜空には花火が打ち上げられ、街には荘厳なクラシックが響き渡る。体制の象徴は爆破され、群衆は感動に身を震わせる。
誰かが賢くならない限り永遠に繰り返されるお猿のゲームの一部始終であるが、花火が大層美しいので、まあいいか、と言うのがワチャウスキー兄弟のスタンスらしい。現実がこんなにお猿だと困ってしまうが(実際多くの人が困っているわけだが)、映画なのでまあいいか、と言うのが取りあえずの俺の感想である。
テロリズム礼賛映画としては非常に中途半端で、あまり美しくはない。群衆は「リベリオン」ほど抽象化されておらず、やることと言えば警官をリンチしたりゾロゾロ練り歩いたりするぐらいなので、見ていて何だか居たたまれない気持ちになってくる。「ファイト・クラブ」ほどの詩情もないし、現出されるカオスの量も「バットマン・ビギンズ」に劣る。「マトリックス」シリーズのように革命がリサイクルされることへのおののきも感じられない。
「リローデッド」であれだけの長ったらしい問答を繰り広げた兄弟の仕事とは思えず、要するに今回は「マイノリティは可哀想だから可哀想」「虐げられたから復讐は正当」と言う次元で意識的に思考停止したと言うことなのだろう。実際のところ、マスクド座頭市も、彼の復讐に巻き込まれるナタリー・ポートマンも、彼らを追いかける体制側の人々も、抑圧されてる群衆も、本質的には私怨とか状況に反応しているだけであり、自らを省みるという思考ルーチンを不自然なほどに欠いている。端的に言えば大して何も考えていないように見える。
そのくせ「真実を悟ってます」みたいな微笑みを浮かべ続けるマスクド座頭市は根本的に意味が不明であるし(「不気味で面白い」までは全然到達していないのが歯がゆい)、要するに頭がおかしいだけなのに、なぜか紳士面を決め込んで、終始落ち着き払っているあたりも観客としてはどうかと思う。そんなのに翻弄されているナタリー・ポートマンも我慢強いだけのアホに見える。そして何よりも、支配にも扇動にも弱い群衆の姿は見るに堪えない。ところどころ凄く美しいのだが、何となく浸りきれない映画であった。
ところでワチャウスキー世界における警官はショッカーなので殺しても倫理的な問題は生じないのだが、「アクション映画として便利だから」と言う理由だけでこれを何度も繰り返されると、段々その陳腐さに飽きてくると言うか、意地悪い突っ込みのひとつも入れたい気持ちになってくる。そろそろ止めにして欲しい。
冗談と思われるかも知れないが、この映画はバーホーベンに撮らせるべきだった。
追記(5/3):けなしてばっかりなことに気づいたので追記しますが、「死ぬほど詰まらないから観ない方が良い」みたいな映画ではないです。アクションはそこそこかっこいいし、考えされられるところもある。ある程度には面白い。でも最後にもうひとつだけ意地悪を言うと、この映画に感激した人はファシズムを意識的に警戒した方が良い。加害者となる可能性も、被害者となる可能性も、恐らく平均よりも高いはずである。