時をかける少女を(テレビで)見た

ネットでの評判が非常に高かったものの、その持ち上げられ方が「オタクの宝物」みたいな不気味な様相を呈し始めたので気味が悪くなって映画館で見る機会を逃していた「時をかける少女」をテレビで見た。爽やかで美しい映画でした。
男子と妙に親しくつるんでいる女子にはオタクかアバズレしかいない、というのが高校という時代であるが、ヒロインのマコトはひたすらに爽やかで快活な美少女なのだった*1。作品の疵にはならないものの、かなり思い切ったファンタジーと言える。高校時代の思い出が薄れかけている大人とか、思い出を捏造する能力に長けた人々に向けて作られた映画なのかも知れない。要するに俺やあなた、この映画の客層として直感的に思い浮かぶ、20代とか30代のオタク気味の大人たちである。もっと若い人たちはどう見たんだろう。
さて、この映画がオタクから妙な高評価を集めた理由について考えてみたところ、こうしたヒロインを巡るシチュエーションが、オタクにとって案外身に覚えがある、あるいは共感できるタイプのものだったからではないか、と言う結論に達した。前述したように、オタクの女子はオタクの男子と妙に親しくつるむ場合があるから、である。新海誠の「雲の向こう、約束の場所」を見よ。「男文化に何故か介入してくる女子」と言う状況は、オタクの恋愛にとってどうやら定番なのだ。ただし言っておくが、そのユートピアは端から見ると凄く気持ちが悪かったはずなので、うっかり自分の姿を見ちゃったりした人は自省した方が良さそうだ。しかしノスタルジーとは多分にそう言うものとも言える。

*1:記号としては「普通の女の子」かつ「特に美少女と言うわけではない」と言うのがマコトのキャラクターであるが、細田守貞本義行によるキャラクターは基本的に全員が美男美女である。さて、「普通の女の子」とか「特に美少女ではない」と言う情報を、あなたは一体どこから読みとっているのか?アニメが駆使する記号の数々は、このように恐ろしく巧妙なのである。我々が類型を学習しすぎている、類型のバリエーションが思いのほか貧しい、と言うのも勿論あるにせよ。