音楽の聴き方について その2

ブライアン・イーノのインタビュー記事を読んだ。

音楽の易入手性が、音楽の歴史が持つ垂直性を、ある意味でフラットにしてみせた、というのは事実だろう。イーノはそれを、「もはや音楽に歴史というものはないと思う」「すべてが現在に属している」というインパクトのある言葉で表現し、これはまったくその通りだと思う。
ただしこれは、「主にリスナーにとって、音楽の歴史を殊更意識せず、容易にザッピングできる環境が整ったけど、これは全く新しい事態だよね」ということであって、「デジタル化によって、音楽の歴史が突如消失するという、一大カタストロフィが起きたよね」ということを意味していない。当のイーノ自身も、「私が最先端だと思える音楽」を求めているのであって、歴史の垂直性のさなかにある。
前のエントリにも書いたことだけど、音楽の歴史は、その入手性とか、聴取スタイルとか、社会情勢や政治といったものよりも前に、楽器に由来する演奏可能性に規定されている。ある楽器をこのように演奏すると、こうした音が出て、それを聴くとこのような気分になるよね、という、(プレイヤーとリスナーの)実験・経験・記憶の蓄積があって、さらにマス的にピックアップされたものが、歴史として共有されていく。
ジョン・ケージは、そうした構造を浮き彫りにすることで、歴史から音楽を自由にしようとした。この目論見はある意味で成功したが、果たしてそれは音楽なのか、という新しい問題も提起することになった。
音楽の歴史に反抗し、疑義を示したのは、当然のことながらジョン・ケージだけではない。古くはシェーンベルクらが、無調音楽によってそれを示した。ポピュラーミュージックの勃興以後は、ミニマリズムとか、ノイズ、それにスカムといったジャンルに属する人々が、それをやってきた。楽器の演奏可能性=楽音から切り離された音で、音楽は成り立つのか。歴史による取捨選択そのものが権威主義的で、音楽にとっては無意味なのではないか。彼らの試行錯誤もまた、(皮肉なことに、)オルタナティブな音楽の歴史を紡ぎつつある。
デジタル技術は、演奏可能性から音楽を自由にする予感(幻想かも知れない)を孕んでおり、画期的である。新しいことに興味がある音楽家がこぞって電子音楽に手を出すのは多分このためで、たとえばイーノは「Bloom」などを作って最先端を提案した。しかし、これらもまたデバイスによって規定された音楽に過ぎず、これからも蓄積しつづける歴史の一部であることを免れない。
多少しつこく書きすぎたが、芸術は昔から歴史の軛から脱出しようと必死なのだ。ただし、過去にあった様々な表現や方法論が、一斉に手元にあるかのように、容易にアクセスできるという状況は、デジタル化が招いた新しい事態である。リスナーにもプレイヤーにも、ある種の変化をもたらすだろう。場合によっては革命的な変化を。様々なかたちで、それは現に起こりつつある。その良い面と悪い面を、イーノはインタビューで語っている。イーノが言ってるのはそこまでだ。
著作権切れの文学が、「青空文庫」で無償公開されている。文学の易入手性は、文学の歴史を消失させただろうか。そんなことはない。ただし、「浮雲」と「こころ」はどっちが先に書かれたのか、読者は知らなくてもザッピングできる。これには良い面と悪い面がある。それは理解しておく必要がある。「もはや音楽に歴史というものはないと思う」という発言を、都合良く解釈しすぎてはいけない。現在にしか生きられない我々にとって、歴史を学ぶことには重要な意味がある。