「ラブリーボーン」を見た、の続き

先日の日記に感想を書いたが、ちょっと書き足りなかったので、もう少しだけ。
ラブリーボーン」は、殺された少女が<in-between>(=あの世とこの世の間)に留まるという一種の幽霊映画であり、カトリック的な語彙でいう<浄罪界>のような場所から魂が救済されるまでを描いた物語である。つまり、おそらく背後に神が想定されている。カトリック的な神ではないかも知れないが。*1
生者の世界とスージー・サーモンの世界は、願いや感情によって引き起こされる超常的な現象によって互いに作用しあっており、そうした作用は基本的に「ビジュアル」として、「見えるもの」として顕現する。つまり、登場人物か観客のどちらかが必ず目撃する仕掛けになっている。セリフによって示されることもあれば、明らかに何かを見たという表情によって示されることもあるが、この映画における(人の感情を資源にした)超常現象は、必ず誰かの目に見えている。それらはWETAが誇る絢爛なCGで表現され、映画の見所にもなっているわけだが、そればかりに注目していると、たぶん映画の本質は見えない。
ラブリー・ボーン」で最も重要と思われる出来事は、映画の後半、夜のトウモロコシ畑で起こる。それは死者の願いも生者の願いも届かなかった結果としての、ほとんど不条理ともいえる惨事であり(だからCGによる演出も無い)、一見、単なる失敗のようにしか見えないが、おそらくピーター・ジャクソンは、このシーンを秘かな奇跡として演出している。死者と生者の願い、つまりは超常的な現象をも超えた、啓示として。映画が示そうとした倫理は、このトウモロコシ畑のシーンで一気に露わになる。
CGだらけの映画の中にあって、このシーンの突出した殺風景は、一体どうだろうか。暴力が達成しなかったのは、ただの失敗だろうか。草むらで「死んでる!」と叫んだ人物は、単に勘違いをしたのだろうか。この出来事の後、スージーとジャックは何を得ただろうか。ミスター・ハーヴィは、何を失っただろうか。「奇蹟は誰にでも一度おこる だが起きたことには誰も気がつかない」。これは楳図かずおの漫画に出てくる言葉。
というわけで、その後スージー・サーモンは自分のいない世界を許すという境地に達し、スージーを失った家族もその世界を受け入れる境地に達し、一度きりの奇跡を見逃したミスター・ハーヴィは相変わらず救いようがない。神は無関心を決め込み、ハーヴィは怨念の残滓を受けて自滅する。怨念を帯びた氷柱は鋭く光る。美しい骨は誰の目にも止まらず、感情の憑代であることを止め、痛ましい想い出から解き放たれ、美しいまま眠りに就く。

*1:ピーター・ジャクソンの映画には、カトリック的なものへの反発とも同調ともつかない、奇妙な留意のようなものが通底している、ように思う。あまりに無宗教的な<in-between>の見た目にも、やはりそれを感じてしまう。彼の無意識なテーマのひとつなのかな、という気はする。