ひさうちみちお「托卵」

yoyoyo2004-03-29

7〜8年前に古本屋で購入した。ひさうちみちおと言えば悪ふざけた変態エロオヤジと言う先入観しかなかったので、その端正な表紙に驚いて買ってしまった。そしてその内容も驚きであった。とても素晴らしかったのだ。
以下あらすじ。呉智英のあとがきから引用します。

 中世ヨーロッパの某国に「カッコー」と呼ばれる非定住の人々がゐた。鳥の郭公に託卵の習性があるやうに、カッコーは自分たちの子を良民の子とすりかへ、あるいは捨て子の形で良民の社会にまぎれ込ませる。これが事実なのか、良民たちが生んだ妄想なのか、真相は定かではない。ともかくもこの国には「カッコー」といふ共同幻想が成立し、差別する良民たちと差別されるカッコーたちが相争ひながら生活してゐる。また、差別する良民はカッコーの進出におびえ、差別されるカッコーは抑圧に苦しんでゐる。
 物語は、ある殺意事件に関するカッコーたちへの疑惑を晴らさうとする修道士とその事件を審理するリベラルな判事の養子の少年とを中心に展開する。権力者同士の争ひ、その間で利用される下層庶民、世俗権力と教会勢力とのかけひき、カッコーの抵抗運動組織の内輪もめ、権謀によって保身をはからうとするカッコー出身の成功者・・・・・・。さまざまな登場人物が「カッコー」の物語を彩る。読者はそこに差別の諸相を見るだらう。『託卵』は差別され虐げられた人々の物語なのだ。

全編にわたって淡々とした描写が続くので(横山光輝の『三国志』の紙芝居度をさらに高めた感じ)、読んでて結構疲れますが、読むべき価値のある漫画だと思います。見つけたら是非。差別と言う難しい問題を考えるときの助けになるはずです。せっかくだからもうちょっとあとがきから引用してこの項を終えることにする。

 カッコーたちを差別し抑圧する良民たちに非があるのは明らかである。彼らは妄想にとらはれてゐるのだ。だが、妄想は、それが妄想であることを啓蒙すれば簡単に消えるやうなものならば、妄想ではない。啓蒙の光を当ててもその光が届かないほど暗い心の闇に、その妄想は発してゐる。その闇は、郭公の託卵の習性を知った時に浮かび上がる影である。
 カッコーたちは、今は理がある。しかし、イスラエルパレスチナ人を抑圧して成立してゐるやうに、抑圧への契機を内に持ってゐる。自分たちはカッコーだという妄想だ。この妄想こそが自分たちを抑圧する大本であるにもかかはらず、この妄想がなければカッコーはカッコーたりえない。すなはち、自分が自分たりうるために、この妄想はある。

郭公の「託卵」をテーマに選び取る嗅覚の鋭さよ。ひさうちみちおはただのエロじじいではないのです。