宇宙戦争(DVD)を見た

遅ればせながら観た。
ポスト9.11映画として語られることの多い本作であるが、公開から随分たってしまった上に、順番が「ミュンヘン」の後になってしまった上に、お気楽にDVD鑑賞である上に、基本的にあらゆることに鈍感であるため、9.11を寸秒も想起しないまま純粋なSFスリラーとして鑑賞してしまった。そしてすごーく怖かった。もちろん面白かった。
鑑賞中はひたすら怖がっていたのでほとんど何も考えなかったが、見終わってから反芻してみるとアメリカや世の中やスピルバーグが今より更に/依然としてどうかしていた時期に撮られた映画であることは何となく想像がつき、このバーチャル地獄巡りが9.11後の世界に何らかのインパクトを ―教訓やら自省やら追体験による浄化などを― 与えたかも知れないことも同時に想起され、俺は映像の力に胸を熱くするばかりなのだった。などとは微塵も思わず、逆にいかなるメガデス状況も人間を変え得ないことを執拗に思い知らされたのだった。
我々は何も学べないし進歩しない。暴力は空から降ってくると言うより最初から地面に埋まっていたのであり、恐怖は湧いてくると言うよりそこにあったと気づかされるのである。アメリカ人の鈍感さとは関係なく、暴力や恐怖の本質はいつでも誰にとっても恐らくそんなもんである。この陳腐なメタファーがそれでも味わい深かったのは、侵略者の武力の描写が執拗なほど丁寧であったからで、ここで手を抜いていたら「わしらメリケンにはアラブのテロは理解不能ずら」と言いたいだけの薄っぺらな風刺映画になっていただろう。
この映画を重厚なものにしているのは、侵略者の造形・戦略の(不条理などと高尚に解釈することさえ不可能な)圧倒的な意味不明さであり、それに耐えてよく演出された無駄な迫力である。丸足を揃えてジャンプするトライポッドのアホさ、巨大な図体にもかかわらずセコいビームを発射して一人ずつ人間を殺して回るトライポッドのアホさ、よりによって人間の血を吸って活動するトライポッドのアホさ、カラスに周りを飛ばれるトライポッドのアホさ、これらのアホさは映像としてマッシヴかも知れないが本当にアホで、ここまでアホだと現実に起こった何かを例えようとする気には流石にならない。
こうして具体性のある風刺やジャーナリスティックな表現をあえて手放すことにより、もっと普遍的な、とても怖い、手に負えない、対処できても意味は分からない事象への言及として訴求力が増した。「宇宙戦争」と言う格好の題材を扱いながら、何かの風刺映画になることを注意深く回避した(それどころか純粋な暴力映画にしてしまった)スピルバーグの判断は賢明であったと思う。回りくどい意味で、なかなかに意義深いポスト9.11映画になっている。
スピ映画における永遠のテーマ「父子関係についてのこだわり」も相変わらずしつこく提示されており、今回は冒頭からラストまで家族の境界を攪乱し続けることで観客にその意味を問うている。安全のおまじないとラストの抱擁を引っかけている点なども示唆的と言えば示唆的である。が、いつも通り観客にとってはどうでもいいことなので、あの何とも煮え切らない結末に不満を覚える向きも少なくなかったことだろう。しかし近年のスピルバーグには映画のアンチカタルシス化を自覚的に推進している兆候が見られる上、父子関係への言及を省略する気配も引き続き全くないので、この傾向は今後も強化されると見るのが妥当である。実際それは「ミュンヘン」で実証された。
これをお約束芸が定着していく過程と見るか、単に詰まらなくなっていく過程と見るかは評価の分かれるところだが、俺の評価は圧倒的に前者である。父子関係への不安を抱えながら、映画の分からなさ向かって突進する00年代のスピルバーグはどこからどう見ても狂人であり、キチガイに刃物を持たせると怖いのである。その刃物とはスピルバーグの比類なき演出力であり、そんな彼が何を生むのか、何を葬り去るのかを俺は見届けたい。ここまで異様な映画監督は他にいない。是非この調子で頑張って欲しいと思う。
なぜかティム・ロビンスが出ることを知らずに見ていたので、出現した時にはちょっと驚いた。この人は子供を襲いそうな大人を演じさせると巧い。