村上春樹と安原顯について

どうして村上春樹はある種の批評家たちからこれほど深い憎しみを向けられるのか?
この日記にも何度も記したトピックだが、私にはいまだにその理由がわからない。
けれどもこの憎しみが「日本の文学」のある種の生理現象であるということまではわかる。
ここに日本文学の深層に至る深い斜坑が走っていることが私には直感できる。
けれども、日本の批評家たちは「村上春樹に対する集合的憎悪」という特異点から日本文学の深層に切り入る仕事に取り組む意欲はなさそうである。

自分の立場を示しておくと、俺は村上春樹の大ファンであり、安原顯は存命の頃から好きではなかった。
威張ってる編集者ほど嫌らしいものはなく、またそう言う人に限って、自分の能力やら価値に不安や猜疑があるのか何なのか知らないが、ことさらに自分の業務の専門性を誇示してくる傾向が強いので、こういう人が近くにいると本当に不幸である。
で、安原氏が存命の際、それも亡くなるちょっと前あたりに、村上春樹の原稿を古書店に売却しており、それについて村上春樹文藝春秋に文章を寄せた、と言う今回の出来事を耳にした時、一体これは何なのか、スーパー編集者のわりに随分と行動が杜撰ではないか、彼の身の上に当たり前の職業的モラルを凌駕するほど小銭が必要な事態が果たして生じていたのか、そして売却されたのは村上春樹の原稿だけだったのか、だとしたらますますこれは何なのか、などの疑問が浮かんだのだが(それでも大して興味が湧かなかったので文春は買わなかったのだが)、こうして一連の流れを確認してみると、村上春樹が示唆するように、彼が溜め込んでいたワケの分からない憎悪が動機となった可能性はどうやら高そうである。
内田氏が指摘するように、村上春樹はある種の批評家からずーっと嫌われ続けてきた。
それは彼が、病気がちで、鬱で、咳き込んでいて、自己顕示欲が強くて、文化人で、社交的で(と言うよりサロン志向で)、特権階級的で、権威的で、集金力の強い、従来の小説家幻想を全否定するタイプの作家であり(彼自身、いわゆるブンダン的ヒエラルキーや仲間内で後書きを寄せ合ったりする文化が理解しがたいこと、また文体について突き詰めて考えると「不健康で破滅的な文豪」と言うある種の日本的イデアが幻想に過ぎないであろうことを、エッセイ等で繰り返し繰り返し述べている)、旧来の文壇的価値観やそれにまつわる利権を瓦解させる存在のように、ある種の批評家たちには見えてしまうからなんじゃないか、と言う気が、何となくするのであった。
ファンだから言うわけではないが、近年の村上春樹の筆力はちょっと尋常ではないレベルに達している。有り体に言うならば殆ど「達人」の領域に達しており、ここまでプロ的なプロはどの分野を見渡してもそうはいない。文章や思考は何よりもフィジカルに依存する。ナルシシズムも一種の方策だが、実体が伴わないなら単なるナルシシズムに終わる。旧来の私小説はそれを脱却できなかった。短編は天才的だが長編になるとだらしのない太宰治(公的なイメージで言えば私小説の権化である)を見てもそれは理解できよう。そうして旧来の文壇的エスタブリッシュはそのふがいなさにたかり、その自己陶酔に寄生したのである。
村上春樹の著作についてだであるが、長編を読むのがダルいなら、日本中のスポーツライターを落ち込ませた「シドニー!」あたりを読むことを強く薦める。プロローグが有森裕子の一人称で書かれているのだが、素人目にも「これは無理だ、とても書けない」と思わせる強靱なラソン的文章である。日本人として、日本語の文章を扱うものとして、プロの仕事を観測する手だてとして、どう考えても必読の文章と言える。