硫黄島からの手紙を見てきた
見てきた。万事に抑制が効いており、観客を泣かしてやろうとか、そう言う浅ましさを一切感じない。非常に立派な映画であった。配役も素晴らしかったと思う。主演は渡辺謙と言うより二宮和也で、最初は大丈夫かよとも思ったが(あそこまで露骨にニヒルな日本兵をあんまり見たことがなかったので)、途中から凄くリアルに思えてきた。とても良かった*1。
今回も、イーストウッドのキリスト教観がひっそりと込められているシーンがある。イーストウッドが意識的にやったのか、照明監督が思いつきでやったのか、偶然なのかは分からないが、バロン西のシーンを注意深く見てみると何か発見があるかも知れない。イーストウッド映画における聖性とは、常に自殺や犠牲や傷や血、そして影に宿るのだった。
見ている間、岡本喜八の「沖縄決戦」をずーっと思い出していた。
イーストウッドの立ち位置は、岡本喜八のそれと似ている。喜劇と悲劇の違いはあるが。右とか左とか戦争がどうのこうの以前に、単に人間らしくありたいのである。ヒューマニズムみたいな感動的な言葉よりも、おしっこすると気持ちが良いよなあとか、犬が逃げたので困りましたとか、あの娘かわいいよなあと言うレベルで人間らしくありたいのであり、同時にそれを阻害する何かの存在に気づいているのであり、そんな存在の全てをただ冷たく眺めてしまうのである。そしてそれでもなお、人間のしたたかさに全幅の信頼を置いているのである。だから二宮君はしたたかに微笑むし、微笑むことが叶わなかった眼鏡の一兵卒の白骨はどこまでも恨めしいのである*2。