金村修の言葉

日本カメラでの連載も相変わらず凄い、金村修のかっこいい言葉。
相手が素人だろうと何だろうと、作者の意図を徹底的に汲まず、容赦のない選評を行なうことで知られる金村修であるが、これだけ言ってのける人間に、まあ何言われても仕方ないわなあ、と少し思う。我々素人とは覚悟のレベルが違う。

土門拳はよりいい写真を撮るために「私」をカメラに従属させようとした。カメラを自らの肉体に合わせていくのではなく、肉体をカメラのように機械化させていく。カメラが「私」にとっての手足なのではなく、「私」がカメラの手足になることなのだ。「私」にとって写真とは何か?という問いは全く無意味な問いでしかない。むしろ写真にとって「私」とは何か?という問いの方が重要になる。「私」は一つの小さなきっかけとして常に撮る度に振り捨てていかなければならない。「私」は写真についていく。野生の荒馬に引きづられるように、私達は写真に引きづり回されながらついていく。あなたの夢やあなたの心があなたを連れていってくれるのではない。写真だけがあなたを世界の限界へと連れ立っていってくれるのだ。」金村 修

特にカメラ日和っぽい世界に安住しちゃえる人々とは精神の根本が違うように思う。