アメリカン・ギャングスターを見てきた

リドリー・スコットの新作、「アメリカン・ギャングスター」を見てきた。
黒人ギャングのボスが死に、傍らで帝王学を学び取っていた黒人運転手フランク(デンゼル・ワシントン)は、マフィアを介さない麻薬の現地直接買付という商売を思いつき、ハーレムの新たなボスとして成功する。一方、ニュージャージーの警官リッチー(ラッセル・クロウ)は、女たらしで離婚の危機で子供も取られそうで、いわば最低の状況にあったが、妙に真面目なところがあったので、それを買われて特別麻薬捜査班のリーダーに抜擢され、腐敗しきった警察組織の中で奮闘する。立場をキャラで相殺すると同じ人になる、という意図が明確なキャスティングである。
語り口は淀みなく、役者もみんな素晴らしく、ビスタサイズの画面にもそれなりの圧力があり(撮影は「ゾディアック」のハリス・サヴィデス)、話もとても面白いのだが、脚本家と意思の疎通が全く取れていない感じは相変わらずリドリー・スコットであった。また、「ブラック・レイン」が全くの出鱈目だったように、あるいは「ブラックホーク・ダウン」が最終的には感動のマラソン映画になってしまったように、リドリーには頭の悪い植民地主義や見栄えの良いエキゾチシズムを無批判に映画に持ち込む習性が見られるので、今回も「ブラック・レイン」のハーレム版あるいはベトナム版に過ぎないのではないか、とか、思いついたように挿入されるアメリカ史への思わせぶりな言及についても、「実はよく分からないけど、それらしく見えていればよい」程度のものなのではないか、そもそもお前はイギリス人だろう、といった疑念を拭い去ることができず、終始どう反応して良いか分からない感覚が持続した。
リドリー・スコットだから凄いに違いない、という幻想は、映画ファンなら誰もが抱える一種の病気だと思うのだが、今回もそれなりに面白く、しかも何が言いたいのか相変わらず分からないので、いつものように幻想は持ち越されるのだった。あっと言う間に見限られたマクティアナンなどを思うと、これはある種の才能なのかも知れない。天才というより天然なのだ、と言うのが最近のリドリーに対する自分の感想である。
なんか貶しているような感想になってしまったので追記しておくが、司法試験のシーンと電子レンジのくだりは好きだった。突入シーンも流石に凄い。