ゼア・ウィル・ビー・ブラッドを見てきた

見てきた。友達と「ミスト」を見るか「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」を見るかで会議になり、自分が負けてこちらになった。そんなわけで全く気乗りしない状態で見たのだが、これがもう予想外の面白さで、終演後には自分の方が興奮していた。いやはや、最高でした。
監督のポール・トーマス・アンダーソンについて、小説家の佐藤哲也氏は

テクニカル・ポイントは10。しかし心がないのである。コーエン兄弟のように心があるようなふりすらしていない。一言で言えば「腐り切っている」ということになるのだろうか。

と評していたが*1、自分も全く同意見で、本作で更にその思いを強くした。ただ一点誤解していたのは、PTAは映画的才能や技術に溺れてそうした状態に陥っていたのではなく、どうやら最初からそう言う人らしい、と言うことである。これは重大な誤解であった。PTA映画に付きまとっていたシニカルさや得意気な達観は、群像劇とかラブストーリーなどのオブラートを取り去ると、あろうことかダニエル・デイ=ルイスとなって全方位的に怒号を浴びせ始め、登場人物を責め苛む。シニカルと言うよりは攻撃的な猜疑であり、達観と言うよりは意志を持った暴力であり、PTAとは本来的にそういった資質の持ち主のようであり、結果として映画を支配しているのは極めて重層的なルサンチマンなのだった。この映画は血脈と親殺しについての映画であったと同時に、ルサンチマンについての映画であった。ダニエル・プレインビューは、神の不在に苛立っている。不在を確かめるために石油を掘る。神の実在を騙るものを殺す。
終盤、映画は危険な躁状態に陥り、そのまま見事な破裂を迎える。エンドクレジットも含めて、この辺りの描写には特別に素晴らしいものがあった。是非とも映画館で見て頂きたいと思う。今まではキャラクターを見下ろすように上空を漂っていたPTAの存在が、キチガイキチガイのぶちまけるような口論の間に、確かに見えたような気がしたのだった。
長尺を感じさせないテクニックも健在で、何がどうなっているのかは不明だが、とにかく巧みであることは随所で感じた。終演後、どうして長く感じないんだろうねと友達に聞いてみたところ、「構成上、省略はできないが退屈になりそうなシーンになると、作業員の手が滑って人が死ぬからだ」とのことで、言われてみれば確かにそうだった。なるほどねえ。

*1:マグノリア」の感想として