ダークナイトを見てきた

クリストファー・ノーラン×クリスチャン・ベールによる新バットマンの2作目、ダークナイトを見てきた。個人的に前作を物凄く気に入ってしまい、ほとんど過大と言ってもいい期待を持って映画館に向かったのだが、裏切られることなく楽しめた。素晴らしかった。
前作を気に入ってしまったのは、吸うとキチガイになるガスがあり、それを吸い込むと音はゆがみ、空気もゆがみ、バットマンは目や口から赤い光線を出している化け物のように見え、騎馬警察の馬は炎を吹き出す怪物のように見え、とにかくありとあらゆる恐ろしいものがより恐ろしく見え、何が何だか分からなくなる。そんなガスを町中に充満させてみましょう、と言う非常に趣味の良いテロが行われたからであった。正気の底を全員で一気に踏み抜くと何が起こるのか。正気とキチガイの差を評価する者が消え失せると何が起こるのか。よりパワフルな狂人が君臨する。主人公を含むほとんど全員の頭が一度はおかしくなると言う大規模な試みによって、「バットマン・ビギンズ」はそれを示した。狂人同士の戦いは倫理の物量と暴力の総量によって競われる。倫理の実質は内容ではなく強度であろう。アル・グールは倫理でバットマンに勝っていたが、暴力でバットマンに負けた。
さて、前作を正気と狂気をめぐる観念的な理論の映画だったとするならば、「ダークナイト」はその実践編にあたろう。アル・グールのテロによって「全員が正気を失うと何が起こるのか」は既に見たので、今度は「全員の正気を奪うにはどうすれば良いのか」を、より具体的に、我々の現実に即した形で示そう、しかもバットマン最大の宿敵ジョーカーによって、と言うわけである。実践編なので、「キチガイになるガス」のような結果ありきの手法は封じられ、ありきたりのナイフと銃と爆弾によってジョーカーはそれを示す。それに応じて、まだまだアメコミ的な暗黒街の形をしていたゴッサム・シティは普通のアメリカのような姿になり、ケイティ・ホームズマギー・ギレンホールにすり替えられ、前作に残っていた戯画性は適度に後退し、生々しい恐怖が格段に増した。
ジョーカーのテロを「手ぬるい」と思う向きもあるかも知れないが、「ジョーカー程度に頭がおかしければ、あの手のテロは充分に実現可能であろう」と言う、誰もが知っているが考えないことにしている恐怖の事実を単刀直入に言ってのけた時点で、娯楽映画としてはわりとギリギリであろう。「ファイトクラブ」のタイラーがやったような大規模テロを、本作のリアリズムでやっていたら一体どうなっていたのか。見たかったような気もするが、やはりどう考えても収拾がつかないし、ジョーカー向きではない。脚本家は多分正しかった。あとバットモービルはやっぱり凄かった。