スピルバーグ考

スピルバーグは昔から本当におかしかったのだが、一応マトモであるふりを止めたのは「プライベート・ライアン」以降である。「ライアン」以降、スピルバーグは主人公が跪き万歳しながら電撃的に何かを悟ったりするような映画を撮るのを止めた。結論は曖昧に、カタルシスは行方不明になり、道徳的な教訓は掴みようのない霧へと消えた。そして細部への関心が異様な分量を占めるようになった。彼に何が起こったのか?
スピルバーグファンとして推察するに、彼自身の子供達の成長が促したある種の客観性と、フィルム映画の歴史的な残り時間の少なさが生んだある種の覚悟が、恐らくは重要な契機となっているように思える。スピルバーグはハリウッド的であることを止め、映画そのものの普遍性に従いつつある。観客を弄ぶような緊張と弛緩の交叉、入り組んだモンタージュ、映像や音響による感覚の支配。スピルバーグは娯楽映画の王様でありながら、凡百の「アーティスト」達が決して到達できない場所に足を踏み入れつつある。「ミュンヘン」は映画を作ろうとする者にとって間違いなく必見の映画だ。研ぎ澄まされたSF作家であった藤子・F・不二夫がドラえもんと言う究極の凡庸を遂に成し遂げたように、単なるアクションスターであったはずのイーストウッドアメリカ映画の深奥を掴んでしまったように、スピルバーグ本当に特別な存在になりつつある。