崖の上のポニョを見てきた

見てきた。最近の宮崎駿は何だか凄いことになっているので、相当な期待を持って見に行ったのだが、やはり何だか凄いことになっており、驚嘆した。世界的に見ても最高の映画作家の一人であることはもはや疑いようがなく、ことアニメ映画においては追随者がいない。コンセプチュアルな短編アートアニメでしか成立しないような野放図な想像力の炸裂が、コンセプチュアルな短編アートアニメでしか成立しないような緻密な動画で描写され、それが家族向けの夏休み映画としてパッケージされ、超拡大でロードショーにぶちこまれ、当然のように観客を満足させ、国民的なヒットを飛ばすと言う現在の状況は、60年代以前の黄金時代を含めても日本映画史上類をみない異常事態なんではないかと思う。近い将来、驚嘆を伴って回顧される出来事となるだろう。
前作の「ハウルの動く城」において宮崎駿は、ソフィーが魔法を使っていることを劇中で一切説明しないという凄まじい演出をやってのけたが、本作でも同じようなことを意図的に行っている。子供向けの映画なので、子供の想像力と興味と責任でとらえられること(とらえるべきこと)以外は一切描写しないと言う厳密な取捨選択である。主人公に「泣かないで」と慰められるリサの顔には、しかし絵を見ると涙の跡さえ描かれていない。ラーメンの具が増やされる瞬間の視界は丁寧に遮断される(大人は子供の驚きを奪わない)。どう考えても世界は壊滅的な危機に陥っているのに、大人達は上機嫌を保ったまま、優しく子供達を見守る。フジモトの野望と理論と実践は早口でまくしたてられるのみで、結局ギャグとして処理される(フジモト自身は必死だが、映画のほうに説明する気が全然ない)。巨大母とリサとの対話は、音声がミュートされて全く聞くことができない。この割り切りは何なのか。恐らくこれは、子供達は勝手に頑張るので、大人は大人らしく、黙ってその落とし前を引き受けてやれ、と言うことなのだろう。ちなみに老人と赤ちゃんはこの義務の外にあり、フジモトもそこから降りているのでまっとうにうろたえる(これがまた妙に人間味があって面白い)。で、映画の最後に待っているのは、子供の無垢と無知によって生じた責任が未来の本人におよぶ場合どうなるのかと言う難問であり、この意地悪によって映画が美しいだけのファンタジーでは済まされなくなっている。「千と千尋」のラストシーンと比べてみると、より希望に満ちているように見せながら、観客の子供達にも微かな痛みと試練が残るような終り方になっており、宮崎駿は本作を明確に児童映画として設計したのだな、と言うことを伺い知ることができる。
ところで俺は「となりのトトロ」が全く理解できず、見てると原因不明の虫酸が走って「トトロが肉食だったらサッサと話が終わって簡単だなあ」「お父さんが猟銃を持ってトトロを撃ちに行かないかなあ」などと思ってしまうタイプなのだが(ちなみにあまりに耐え難いのでトトロが出てくるシーンまで到達したことすらない。つまり、一度も見終えたことがない)、本作はなぜ許せてしまうのか?「千と千尋の神隠し」以降の宮崎駿が見せる作劇テクニックの見事さもさることながら(下手になっていると言う人が多いが、どうしてもそのようには思えない)、それに加えて自分が加齢によってどんどん鈍感になっているからだろうとも思う。色んなものに対する憎しみが薄らいでいくのは楽ちんで良いのだが、何となく寂しいところもある。
ぽーにょぽにょぽにょとか聞いても殺意がわいてこなんて、本当に年とったー。