007/慰めの報酬を見てきた

見てきた。この土日に先行があるんだよなーと思いつつも、自分は夕方から予定があったし、同居人は病院に行く用事があったので、さすがに時間ないよねえ、明日か来週でも別にいいか、などと朝起きたときには話していたのだが、程なくやっぱり早く見たいぞ、という話になり、急遽見ることに決定した。
すぐに携帯でタイムテーブルを調べ、KINEZOで席を予約し、同居人は病院に急ぎ、自分は伸びすぎた鼻毛を切りながら間に合う電車の時間をメールで伝え、用事を済ませた同居人と合流し、時間ぴったりに映画館に到着した。IT時代の驚異だ。こんな時間の使い方、つい数年前まではあり得なかった。映画や電車の時間を調べるのにもそれなりの労力が必要だったし、そもそも出先での待ち合わせなんて不可能だった。便利な時代になったなー。
そんなわけで、「007/慰めの報酬」を見てきた。ダニエル・クレイグ版007の2作目で、前作のラストからタイムラグなしにストーリーが続行する。役者も脚本も前作と同じだが、監督は「チョコレート」のマーク・フォスターに交代した。アクション映画のイメージが全然ない人なので、一体どんなもんなのかと思って見ていたが、それなりに賑やかで迫力のある大アクション映画になっていた。
が、「これは新しい007だぜ」という雰囲気は前作から大きく後退しており、特に意味があるとも思えない大移動と大アクションを闇雲に反復し続ける映画的殺風景は、これまでの馬鹿ボンド映画にかなり似ていた。いや、007シリーズは大半が馬鹿であるし、それはそれで全然大好きなのだが、クレイグ版のボンド映画にそういうところは求めていなかったので、何だかちょっと残念であった。
終盤で明らかになる敵方の野望とか、最後のアクションが行われる基地の造形は、まさに伝統的な馬鹿ボンド映画の雰囲気そのまんまであり、誰がやっても結局こうなるのか!という軽い驚きがあった。石油まみれの美女は皮膚呼吸できない人のオマージュなのだろうが、クレイグ版の007でやる意味がよく分からない。回帰したいのか。新しく語りなおしたいのか。どっちつかずで何だか煮え切らない。二度ほど見られるマーク・フォスター渾身の文芸的フラッシュバックも、忍び寄る馬鹿ボンド映画のムードに飲み込まれて何だか若干アホらしかった。
ダニエル・クレイグ版の007は、「自分が誰だか分からなかったが、いつのまにか誰がどう見てもボンド的な存在になっていた」というような、「アンブレイカブル」的な趣旨のシリーズにするのかなと勝手に思っていただけに、本作の後退は何となく不穏だ。
最後にひとつ。本作では、シリーズにおける登場人物の「名前」について、ある一定の解釈が何となく(しかし絶対に意図的に)仄めかされているような節がある。「マティスは本名ではない」。ストロベリー・フィールズなんて本名のはずがない。すると当然、ということにもなってくるわけだけど、これは単に役者交代時のエクスキューズとして確保された仕掛けなのか、ボンドを含めて引っ張るつもりのネタなのか。気になる。