アリス・イン・ワンダーランド(XpanD, 字幕)を見た

ティム・バートンの新作、「アリス・イン・ワンダーランド」を見てきた。以下、あらすじの紹介と共にネタバレします。
19歳になったアリスが再び地下世界に落下すると、世界は残忍な〈赤の女王〉の圧制下にあり、何だか陰鬱なことになっていた。不思議の国の面々は、なぜかアリスを待ちわびていて、それは不思議の国に伝わる年代記に、「アリスが世界を救う」との予言が記されていたからなのだった。やがてアリスは予言のとおり、〈赤の女王〉と〈白の女王〉の抗争に巻き込まれ、ヴォーパルの剣を手に、〈赤の女王〉の切り札、怪物ジャバウォッキーと戦う羽目になる。
意図のわからない陰鬱さと、意図されたかのような空疎さがひたすらに続き、唐突に終わる。何とも奇妙な映画であった。一見、アリスの「女性としての自立」を描いた映画のように見えるが、成長物語としてはあまりにも八方破れ的であり、不自然な部分が多い。単純に「下手」とか「やる気がない」では納得できない不可解さがある。これは一体何なのか。
アリスの活躍によって抗争に勝利した〈白の女王〉は、〈赤の女王〉を放逐するが、これもまた奇妙な印象を残す。〈善〉が〈悪〉に勝利したように全然見えないからである。〈白の女王〉は〈善〉としての立ち位置を与えられながら、〈善〉に見えない。彼女は〈赤の女王〉やマッドハッターと同じ狂人のように見えるし、生来のフリーキーさに翻弄されている存在のように見える。アン・ハサウェイの演技にも、ある種の確信が見て取れる。
ティム・バートンは恐らく、アリスの成長物語、二人の〈女王〉の抗争自体を、ひとつの巨大な悲劇として描いている。変えられない運命の中で、異形になっていったものたちの悲劇として。ラストシーンで船上を舞うアブソレムがアリスに示したのは、「自立した女性」への祝福ではないだろう。彼が示したのは、バートンが〈女王〉やマッドハッターに向ける感情と同じものではないか。つまり、聡いがゆえに頭がおかしく、戻れない姿に羽化することを運命づけられた「美しいクリーチャー」への憐憫と、愛惜である。