(500)日のサマーを見た (BD)

TSUTAYAblu-rayを借りて見た。羅生門スタイルというかデ・パルマスタイルというか、ちょっと変わった方法で恋愛の一部始終を眺める。主演は「インセプション」にも出演していたジョセフ・ゴードン=レヴィット。相手役は「ハプニング」とかに出ていたズーイー・デシャネル。目が怖い。
映画における時系列操作という方法は、通常、物語の断片を劇的に収束させる効果を狙って用いられるものだが、この映画にあらわれる断片は、あまりどこへも収束しない。時系列は意図的に散漫に配置され、主人公が散漫に記憶を反芻するように、観客も散漫に記憶を追体験する。語り口そのものに感心してしまうような鮮烈さはないが、リラックスした感じが映画に持続し、よかった。ミュージカルのシーンもあり、これも凝っていて楽しい。
で、これがある種の教訓話、あるある話を超えた内容になっているかと言われると、まあ、なっていなかった。サム・メンデスの「レボリューショナリー・ロード」とか、スティーブン・フリアーズ の「ハイ・フィデリティ」は、やっぱり凄い映画だったんだなというのが、本作の感想である。また、イギリス人監督とアメリカ人監督の感性の違いかも知れないし、単に監督個人の感性の違いかも知れないが、挫折の後の達観が、諦念というより自己肯定(というか、稚気にも近い)の気配を帯びるのは、何となくアメリカ的だなあ、と思わないでもなかった。これは偏見だな。
ところで「JUNO」を見たときにも思ったのだが、いわゆる渋谷系アメリカ人像というものを、最近のアメリカ映画では結構見る。「特別な自意識」という幻想を誇らしげにひけらかす精神は日米共通で、恥ずかしいながらも何だか共感するところがあるのだが、アメリカの場合はどこかヤッピー的なムードがあり、どうも気持ちが悪い。階層を意識させるからだろうか。ある種の拒絶を感じた。