かぶれるということ

HIP-HOPは苦手なジャンルで、日本語でラップをしている人たちはアホだと思っていた。思春期のころ、地理的な要因からガスボーイズがカリスマで、Technicsのターンテーブルを買おうと思ったりもしたけれど、金銭的にそれは叶わず、ジャンルとしてのHIP-HOPにのめり込むことは結局なかった。J-ラッパーの不気味さが先行して、嫌いなジャンルにさえなっていた。
わりと年をとってから、先輩がmachinedrumのCDを借してくれた。おお、かっこいいテクノ、とか言ってたら、「それHIP-HOPだよ」と言われた。はあ?とか思ったが、周辺を探ってみるとmachinedrumは確かにHIP-HOPで、自分の中の偏見が崩れた。
その後、同じ先輩にRHYMESTER宇多丸のラジオは面白いよ、と言われ、聴いてみたら本当に面白くて、宇多丸のファンになった。宇多丸は折に触れて、「日本でHIP-HOPやってる連中は、要するにかぶれてしまった人たちなのだ」と言う。物事はそこからが面白いのだ、という話をする。自分がロックを好きになったのも、まあ、そういうことだったんだろうな、と思う。
ということで、今は日本のHIP-HOPを楽しく聴いている。ジブラすげえなあ、とか、ブルーハープはあんま好きじゃねえな、とか思えるようすらなった。偏見は可能性を狭める。
先日、宇多丸のラジオ番組でロマンポルシェ。ニューウェーヴについて語っていて、自分は連中のことをずっとふざけてるんだと思ってたんだけど、彼らはニューウェーヴに本当に「かぶれてしまった」人たちなのだった。本気でニューウェーヴを愛している。曰く、「〈音楽ファン〉という言葉が嫌いだ。あいつらはジグジグスパトニックを『音楽じゃない』とか言うから」「こっちが正しくてあいつらが間違ってる」「感動の本質が一つしかない奴等に向かって俺たちは吠え続けなくちゃいけない」。なるほどと思った。何となく感動して、このようなエントリを書いている。
物事は「かぶれてから」が面白いのですね。

第9地区を見てきた

第9地区を見てきた。あらすじの後、ネタバレしつつ内容にふれます。
ヨハネスブルク上空に巨大なUFOが出現する。しかし何も起こらず、待てど暮らせど空中に静止したままなので、しびれを切らした人類が調査を開始すると、宇宙船の内部ではエビというか昆虫のような姿の宇宙人が大量に死にかけていた。どうやら遭難した宇宙人らしい。人類社会は人道的な要請から特別居住区を設けて彼らを地上に住まわせることにするが、とにかく見た目が気持ち悪い上に、粗暴だし、残酷だし、犯罪は働くし、色々と酷いので、一帯は瞬く間に荒れ果てて、スラムと化してしまう。そうした状況を20年間我慢し続けた近隣住民の不満は爆発し、宇宙人は新たな居住区(収容施設)に隔離せよという話が持ち上がる。その移送計画を請け負った民間軍事会社「MNU」の担当者、ヴィカスが映画の主人公である。
目新しいのは、人類と宇宙人が相互理解しない(できない)点で、この手の映画に多く見られる博愛的な空想は最初から退けられている。序盤以降、ヴィカスは宇宙人の立場を体験せざるを得ない状況に追い込まれるが、それによって宇宙人の共感者になったりはしない。ヴィカスはあくまで利己的に動き回り、それによって選択された倫理に従う。ヴィカスに限らず、この映画の登場人物は(宇宙人も含めて)全員が非常に利己的に動き回るのだが、それぞれに深い説得力があり、それぞれに単なる露悪以上の含みがある。それがいちいち面白い。同時にかなり怖いのである。これは凄いことだと思う。
「決定的に相互理解不可能な相手に思えても、実は分かり合えるはずだ」という映画ではない。「決定的に相互理解不可能な相手と対峙したとき、自分の行いが醜いかどうかを問いかける相手は、実は自分自身しかいない」という映画であると思う。安易な共感やヒロイズムを否定しつつ、それでいて単なる露悪趣味やニヒリズムにも陥らない優れた問題提起を、本作は娯楽映画の体裁で実現している。非常に見応えのある、よい映画だった。
クリストファーが人間的に見えるのは、ヴィカスが(そして我々が)、クリストファーの価値観を勝手に擬人化するからである。そして、その当てずっぽうが大きく外れていなかったのは、単なる偶然である。クリストファーが人間的に見えることによって、「我々は宇宙人のことを誤解していた。宇宙人は相互理解可能な存在なのだ。だから差別はいけないのだ」となるのであれば、その人はこの映画が示そうとしたものを大幅に掴み損ねていると思う。無自覚な人間中心主義は、無自覚な自己中心主義の暗喩である(ヴィカスは見ず知らずの宇宙人を「クリストファー」と呼び続ける)。ヴィカスは黒い液体を浴びることで、自己中心主義に無自覚ではいられなくなり、自覚を経た自己中心主義の果てにせりあがってくる倫理は、(驚くべきことに)利他的だったりもするのである。といっても、ヴィカスが行なうのは大量殺人であり、その動機は依然として自らの保身なのだけど。どの方位から見ても正しく見える倫理など、ない。あるとすればそれは嘘だ。
ユーモアはあるがグロテスクな描写が多いので、苦手な人は苦手だろうと思う。しかし、苦手な人にも是非見てもらいたい、傑作でした。

少し寒かった

仕事でしばらく家をあけていた同居人を、電車に乗って迎えにいった。あいにく雨降りだったが、小雨で良かった。大荷物なので、これがザーザーぶりだったら地獄であった。傘をさしながらでもそんなに大変ではなかった。
最近よく履いているスニーカーは、水漏れが物凄い。軽くて通気性が物凄く良いのだが、2mm程度の深さの水たまりにも耐えられない、特殊な構造をしている。それなら他のスニーカーを履けばいいじゃない、ということになるが、他のスニーカーは全て踵が擦りきれていて、やはり水漏れするのだった。だから雨の日はサンダルを履いて出かけることにしている。何かがおかしい。ここ数年、スニーカー買ってないな。
夜、同居人がデジカメで撮ってきた写真をテレビで眺めた。テレビで写真を見るのは凄く面白い。

引きこもり

昼頃に目が覚めて、スパゲティ作りに失敗し(豚肉が生煮えで、再加熱を余儀なくされた)、晩御飯に作った袋ラーメンが不味く(スープを自分で作ってみたが、ただ塩辛いだけでどうしようもなかった)、あまり良い一日ではなかった。洗濯して、台所を片づけて、現在はお風呂の椅子と床をカビキラーで攻撃している。
日常というのはしみじみと面白いものだが、ただ面白がっていると本当に勝手に過ぎていく。こわい。

天気を勘違いする/定食屋で定食を食べる/ブロワーを買う

7時半に目が覚めたが、雨や霙の気配を感じたので再び寝た。寒さに弱い。寒いと何もやる気がしない。本当に雨や霙が降っていたのかどうかは実はよく知らない。夜の記憶と勘違いしただけかも知れない。しかし、とにかく寒かったので、眠りながら「今日は雨だ、下手すると雪なのだ」などと思いこんでいた。昼過ぎに目が覚めて、窓の外を見たら晴天だった。びっくりした。晴れていると知った瞬間に、さして寒くないような気がしてきた。暗示に弱い。
ちょっと歩いて、駅の近くにある定食屋でサービスランチを食べた。昭和っぽい雰囲気の薄暗い定食屋なんだけど、本日の客層は不思議で、客の半分が外国人なのだった。日本人2名。南米系男性1名。白人男性1名。計4名。南米系のお兄さんはテレビでサッカーを見ていた。白人の男性は昼からビールと、ハムエッグを注文していた。おつまみ的な感覚なのだろうか。店主とは馴染みのようで、流ちょうな日本語で何か話していた。
席が遠かったので、あまり詳しくは聞き取れなかったが、(店主)「日本に来たのいつだったっけ?宮沢の頃?宮沢わかる?」(客)「(遠くて聞き取れなかった)」 (店主)「へーもうそんなになるんだ。すごいね。こっちきてから首相の資質があると思う総理大臣って、誰かいた?誰がいいと思った?」とか何とかやっており、いまちょっと話題になっているワシントンポストの記事について語り合っていた。何か冗談みたいな空間だった。
サービスランチを食べながら、棚に置いてあった「美味しんぼ」の21巻を読んだ。二木さんと近城勇が登場する巻で、ほぼ意味のないテコ入れ感が(気持ち悪くて)大変に微笑ましい。「美味しんぼ」には恋愛にまつわるサブプロットがいくつか存在するが、それらは漏れなく山岡さんと栗田さんという二大狂人の物語のテコ入れして出現するので、必然的に全部気持ち悪い。この作品の魅力のひとつだろう。あと編集局長の髪型はドン・ジョンソンみたいだと思う。
その後、電車に乗って電器屋に行き、フィルムとブロワーを買った。ブロワーは、長年使っていたのが先日から見当たらず、どうも紛失したらしい。もしかしたら家のどこかにあるのかも知れないが、散らかっていて何だか分からない。なので新調した。先代のブロワーは、大学生の時にニコンの一眼レフとほぼ同時期に買い揃えたもので、紛失したとなるとかなり寂しい。というか、とても寂しい。どこかにあれば良いのだけれど。