ぼくのエリ 200歳の少女を見てきた

先日観た。原作は未読。いじめられっこの少年オスカーが、どこか普通ではない少女エリと出会う。舞台は80年代前半と思しきストックホルム郊外で、真っ白な雪景色が美しい。撮影も綺麗であった。被写界深度の浅い映像に特徴がある。以下、若干ネタバレしつつ感想を書きます。
Boy meets girl仕立てではあるが、少年少女の交流を描いた映画ではない。はっきりと、マイノリティの怒りと復讐を描いた映画である。マジョリティがマイノリティに浴びせている抽象的な暴力を、マイノリティによる具体的な暴力として反転させると、どう見えるのか、という話である。映画に通底しているのは、明らかに性的なマイノリティ(たとえばゲイ)の視点であり*1、大人に対する子供の視点であり、病気や怪我によって弱者となった者の視点である。もっと言えば、少年愛者の視点というのもあるだろう。そして、そうした視点の持ち主であるが故に、暴力に晒されてしまうこと(あるいは暴力を使う側に回ってしまうこと)への戸惑いであろう。
劇中、死に値する罪があるとも思えない市井の人々が、次々に殺されていく。殺戮者であるエリは、血にまみれながら「これが生きることだ」「私を受け入れろ」と言い放つ。「死に値する罪があるとも思えない」という理屈は、彼女の前では意味をなさない。エリが振るう暴力は、マジョリティが無意識に振るっている暴力と同じものだ。ただ、エリの特異体質においては、暴力が具体化せざるを得ないのである。自分が自分であるために暴力を使う。他人に死ねと願う。で、そういう暴力というものは、やはりどうしようもなく出口がなく、不条理なのである。
映画は壮絶な暴力によって、一旦幕を閉じる。映画が提示するのは一時的なカタルシスに過ぎず、オスカーがオスカーであるための、エリがエリであるための困難と葛藤は、列車のシーンの後も続いていくだろう。ただ、ここで語り終える物語があっても良いとは思う。映画はそのようにして終わる。
終盤に突然繰り広げられるアクションシーンが、凄い。あれを観るだけでも料金分の価値はある。

*1:ちなみに、これは主人公の父親が別居している理由でもあるかも知れない。明示はされないが、それを示唆するエピソードがある。原作では「アル中」が別居の理由であると明示されているそうで、監督もインタビュー等で「父親=ゲイ」説を否定してみせてはいる。が、とぼけているだけのような気もする。

インセプションを見てきた

昨晩、先行上映を見てきた。「ダークナイト」のクリストファー・ノーランの最新作。主演はレオナルド・ディカプリオ渡辺謙が非常に重要な役で登場する。その他、ノーラン組の面々が次々に登場し、妙な既視感のあるキャスティングが楽しかった。特にスケアクロウは途中で本当にスケアクロウに変身するんじゃないかという場面があり、手に汗を握った。映画は非常に面白かった。以下、ネタバレせずに感想を書きます。
ノーランがこの映画を作ったのは、多分「マトリックス・レボリューションズ」がヘタレだったからで、随所に「マトリックス」がアイディアの着火点となったと思しき趣向、アクション、映像が見られる。こういうことを書くと単にネタ話をしたいだけの人に思われるかも知れないが、実際に見てみれば多くの人がそう感じることだろう(ノーランも影響を隠そうとしていないように思える)。ただ、話が似ているとか、パクリとか、見飽きた映像だなーとか、そういう印象は少しもない。詰め込まれたアイディアの物量と展開は半端のないことになっており、まあ、たまげる。
設定は独りよがりだし、説明は不足しているし、全体に粗削りで未完成な印象は否めないものの、それがあまり不快ではない。そしてこれがまさにノーラン印なのだと思うが、娯楽映画でありながら娯楽映画の枠組みを超えてしまうような、人間精神の暗闇をじーっと見つめるような視線がある。それが映画を印象深いものにしている。
IMAXでの上映もあるそうだ。大きなスクリーンで見ると、これは最高でしょう。あとエミリー・ペイジは可愛い。

横山裕一 ネオ漫画の全記録:「私は時間を描いている」@川崎市民ミュージアムを見てきた

見てきた。行きたい行きたいと願っていて、この度やっと行くことができた。ファンなので、何だか過剰に期待してしまっているなあ、という自覚があり、残念ながら期待を上回るような事態にはならないだろうなあ、などと思いながら現地に赴いたのだが、期待を遙かに上回る充実した内容で、感激した。
横山裕一のことは、「COMIC QUE Vol.100」に掲載された短編で知った。藤子不二雄Aの「毛沢東伝」を極端にしたような作風だが、ほとんど誰にも似ていない。これはすごい、というのが最初の印象で、初見でファンになった。今も同じ印象を持っている。
横山作品の、「景観」と「力学」に全ての関心が注がれているかのようなストイックな画面には、不可解なユーモアと新鮮な驚きがある。作中にあらわれるフォルムや事象は極端にデフォルメされたものばかりで、一見冗談じみているが、作品から目を離して現実の景観に注意を向けると、それが冗談に見えない。我々の世界が驚きに満ちた世界であることを、自動的に再発見してしまう。この感覚は、ちょっと感動する。
お土産に600円のバンダナを2枚買った。落下する鉢植えを男が掴もうとしている場面がプリントされており、かっこいい。

アリス・イン・ワンダーランド(XpanD, 字幕)を見た

ティム・バートンの新作、「アリス・イン・ワンダーランド」を見てきた。以下、あらすじの紹介と共にネタバレします。
19歳になったアリスが再び地下世界に落下すると、世界は残忍な〈赤の女王〉の圧制下にあり、何だか陰鬱なことになっていた。不思議の国の面々は、なぜかアリスを待ちわびていて、それは不思議の国に伝わる年代記に、「アリスが世界を救う」との予言が記されていたからなのだった。やがてアリスは予言のとおり、〈赤の女王〉と〈白の女王〉の抗争に巻き込まれ、ヴォーパルの剣を手に、〈赤の女王〉の切り札、怪物ジャバウォッキーと戦う羽目になる。
意図のわからない陰鬱さと、意図されたかのような空疎さがひたすらに続き、唐突に終わる。何とも奇妙な映画であった。一見、アリスの「女性としての自立」を描いた映画のように見えるが、成長物語としてはあまりにも八方破れ的であり、不自然な部分が多い。単純に「下手」とか「やる気がない」では納得できない不可解さがある。これは一体何なのか。
アリスの活躍によって抗争に勝利した〈白の女王〉は、〈赤の女王〉を放逐するが、これもまた奇妙な印象を残す。〈善〉が〈悪〉に勝利したように全然見えないからである。〈白の女王〉は〈善〉としての立ち位置を与えられながら、〈善〉に見えない。彼女は〈赤の女王〉やマッドハッターと同じ狂人のように見えるし、生来のフリーキーさに翻弄されている存在のように見える。アン・ハサウェイの演技にも、ある種の確信が見て取れる。
ティム・バートンは恐らく、アリスの成長物語、二人の〈女王〉の抗争自体を、ひとつの巨大な悲劇として描いている。変えられない運命の中で、異形になっていったものたちの悲劇として。ラストシーンで船上を舞うアブソレムがアリスに示したのは、「自立した女性」への祝福ではないだろう。彼が示したのは、バートンが〈女王〉やマッドハッターに向ける感情と同じものではないか。つまり、聡いがゆえに頭がおかしく、戻れない姿に羽化することを運命づけられた「美しいクリーチャー」への憐憫と、愛惜である。

井の頭公園の私服刑事

天気がよいので井の頭公園に散歩に出かけた。
連休明けの平日と言うことで、人出はさほど多くなく、公園全体が居眠りしているかのような雰囲気であった。土日の混雑した印象とは、ずいぶん違うものだ。緑がとても美しく、風がぬるかった。ベンチに腰かけ、しばらく池の鯉やら亀やら鴨やらを眺めて過ごした。
人が少ないので、一般客と異なる動きをしている人間は非常に目立つ。公園に到着した瞬間から「なんだこれ」と思っていたのだが、この日の井の頭公園には、私服警察官が大量に動員されていた。少なく見積もっても20人ぐらいはいた。とにかくどこを見回しても、私服刑事が視界に入る。
彼らは、長袖Tシャツにキャップとか、カジュアルな服装に身を包んでいたりもするのだが、一般人とあまりにも体格が違うので、すぐに区別がついてしまう。というか、一般人は片耳イヤホンのコードを耳の上側に巻きつけたりしないし、コードが耳元でコイル状になっていることもない。「この人はどうかな」みたいに考え込む必要もなく、一目瞭然で判別できてしまう。新聞を読んでいるふりをしたり、欄干にもたれて池を眺めるふりをしている刑事もいたが、体格がちがう、イヤホンが不思議、の他にも、一点を凝視する時間があまりにも長い、誰とも会話しない、などなど、行動様式が独特すぎて、やっぱりバレバレなのだった。
刑事ドラマなどを見ていて、「人混みに紛れているつもり」というシーンのバレバレ感に突っ込みたくなる時があるが、あれは凄くリアルなのだと知った。恐らく、公園とかで一般人のふりをするのは、捕まえたい人にバレないように、というより、行楽地で周囲に迷惑をかけないように、ということなのだろう。
彼らは何を探していたのだろう?基本的に歩いて探している感じだったが、座ったままの捜査員も多かったので、物ではなく人を探していたのだろう。会話も聞いたが、捜査は難航気味のようだった。同行した友達は「金正男でも遊びに来てたんじゃないの」と感想を述べていたが、思わず納得してしまうような井の頭公園界隈であった。